発表要旨
サルトルと映画、その後[1]
Sartre et le cinéma, après
森 田 秀 二
Shuji MORITA
サルトルと映画の関係について、筆者はすでに4本の論考を上梓した[2]。本稿は先行論文と内容的に一部ダブるところもあるが、サルトル学における1990年以降の成果も踏まえ、新しい視点も加えた研究動向の最新報告である。その意味で「その後」とした。
1)不幸な関係
サルトルといえば、哲学、小説、戯曲の著作が知られているが、映画のシナリオも十数本書いている(巻末の書誌及びフィルモグラフィー参照)。アーサー・ミラーのThe Crucibleを翻案した『サレムの魔女』、ジョン・ヒューストン監督に依頼された『フロイト』のシナリオなど戦後にスポットで引き受けたものもあるが、全シナリオのうち8本ほどは実は1943年11月から1年ほどの間に書かれていたことが明らかになっている。ちょうどパテ映画社の契約シナリオ・ライターをしていた時期に当たる[3]。1943年10月付けの契約書によれば、サルトルは2年間にわたって、毎年6本のシナリオを提供することになっていたが、サルトルとしては初年度に前倒しでできるだけ書こうとしたようだ[4]。このうち映画化に至った『狂熱の孤独』の原作である『チフス』と『賭はなされた』のシナリオは1943年〜44年の冬に書かれており、両作品のカット割りも、シナリオライターのNino Frankの助けを借りて1944年前半には終わっていた。
パリ解放は1944年8月だからサルトルがシナリオを書きためていたこの時期はドイツ占領時代のちょうど末期にあたる。この頃のサルトルの執筆力はまさに驚異的で、1943年〜44年の2年間に哲学では『存在と無』、戯曲では『蠅』と『出口なし』、小説『自由への道』の第二巻(『猶予』)、さらに多くの文芸評論もものしている[5]。シナリオにしても1年たらずで8本というのは記録的なスピードだったようだ[6]。忘れてならないのは、この時点でサルトルの本業はリセの哲学教師であったことだ。尤もこちらの方はパテ映画社の給与のおかげで(高給だったらしい)1944年の春にやめている。
こうした多作の蜜月を経たにも拘わらず、サルトルと映画の関係は不幸な関係であると通常いわれる。サルトル自身、映画製作への参加は「見るも無惨な失敗ばかりだった」と慨嘆している。
確かにパテ映画社向けに書いたシナリオの多くは結局映画化されなかった。また、映画化された場合でも、『狂熱の孤独』もそうだが、ジョン・ヒューストン監督の『フロイト』にしてもクレジット・タイトルにサルトルの名はない。監督と相性が悪いのか、あるいはサルトルは監督の下での共同作業にはそもそも向いていなかったことが原因として考えられる。
不幸のもう一つの理由として、そもそも監督や脚本家に恵まれていなかった可能性もある。『狂熱の孤独』の台詞を書いた二人Jean Aurenche、Pierre Bost、監督のYves Allegret、また『賭はなされた』の監督Jean Dellanoyはいずれも若き日のFrançois Truffautが「フランス映画のある傾向」[7]という名だたる評論のなかでこき下ろしたいわゆる「良質の伝統」に属する監督、脚本家たちに他ならない。実存主義の名の下に人間存在の新しいとらえ方を提示しつつあったサルトルが、こと映画制作においては伝統的な枠の中からでることができなかったという逆説が両者の不幸な関係につきまとうことになる。ただ、この点についてはサルトル自身、そもそもパテ映画社の文芸路線で雇われていたわけで、おかれた状況でサルトルが何をなしえたかが、我々としては関心のあるところだ。
今度は時間を遡り、観客としてのサルトルにとって映画との関係はどうであったのか、要するにサルトルのシネフィルとしての側面について述べてみたい[8]。サルトルの映画に対する情熱、映画からの影響は自伝の『言葉』にも印象深く書かれているが、サルトルは映画との関係を原体験としてとらえていたふしがある。そのせいか意識的かどうかはともかく映画に対しては距離をおかず、極めて親密な関わりを維持し続けたように思う。サルトルは「自分に逆らって考える人間」として自己規定していたが、こと映画に関してはあまり自分に抗ったようには思えない。無声映画への思いを持ち続け、トーキー後もサスペンスフルな映画を好んだ。晩年のサルトルはジョン・ブアマンの『脱出』(Delivrance, 1972)という映画を大いに気に入っていたという話をサルトル研究者のミッシェル・コンタ氏から聞いたことがある。反対に彼があまりにも「知性主義的」だと考える映画は酷評し、例えば、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(Citizen Kane, 1941)についても批判的な評論を書いている。当然、ゴダールは受け入れることができなかった。
どこにグリスが行われましたか?
やや図式的な話になるが、サルトル世界の多様性を整理するためには二人のサルトルがいたと考えてみると便利である。一人は小説家、哲学者としてのサルトルで、こちらは自分に逆らって考え続け、次々と自己変革をとげる前衛のサルトルである。例えば、偶然性(contingence)という概念を駆使して世界の現実をとらえ、場合によってはそれを変えようとさえする。仮に現実原則のサルトルとでも呼んでおこう。もう一人は快楽原則のサルトルということになるが、こちらはひたすら美の世界に遊び、ヒーローを夢見る夢想家であり、前者の現実原則が押さえ込もうとするサルトルの本源的な傾向を表している。サルトルの小説『嘔吐』のなかには「冒険」と名付けられる時間意識が出てくる。これはベルグソンの持続duréeを審美化したような時間意識で、刻一刻が運命的な必然性をもって進むという一種のヒロイックな感覚だが、サルトルにとって映画とはまさにこの特権的な時間を味わわせてくれる冒険であり、また映画は冒険でなければならなかった。
ちなみにサルトルは偶然性を発見したのも映画を見た後で、いつの間にか映画に出てくる風景と現実の風景とを比較していたのだと幾度も述べている。偶然性はまさに映画のアンチテーゼであり、自分に抗って考えるサルトルにおいて、自己の分身としての映画に対立する観念として立ち現れたものなのだ。
2)実現しなかった計画
現実原則による快楽原則の乗り越えはサルトル自身の思想的な成長、小説の場合だと新しい小説形式の模索を含むから当然困難をともなう。偶然性(contingence)の発見と『嘔吐』によるその小説的表現の実現には10年を要したし、戦争というフランス社会をおそう激動の集団的体験と『自由への道』によるその小説的表現の実現にも、早書きのサルトルには珍しくじっくりと何かを醸成させるような時間が必要だった。いずれの場合も体験とその単なる表現ではなく、サルトル自身のパラダイム変換と小説というジャンルそのものに対する根元的な問いかけが含まれていたからだ。
それに対して、シナリオの方はすでに指摘したように周りの人が驚嘆するぐらいの速度で書き続けた。快楽原則に則り恐ろしい速さで書かれたシナリオがそれではつまらないものだったかというとそんなことはない。未発見のシナリオもあり、出版されたものが限られている以上、全貌をとらえることはできないにしても、全体的な印象としてはサルトルの物語構成の巧みさ、会話のリズム、話法や映画技法についての実験精神がかなりストレートに出ているように思う。元々サルトルは映画技術に非常に明るく、後で触れる19歳のときに書いた映画論では、映画という幻想世界を背後で支えている技法についてすでに深い洞察が見られる。形而上学と技法をからめた関心というのはサルトルの小説論について は知られているが、映画についても同様な関心を早くからもっていたことがわかる。
具体的には、特に視点の問題について興味深いシナリオを残している。例えば、『歯車』(L'Engrenage[1947])というシナリオは裁判劇だが、主人公の人物像を複数の証人がまるで異なった視点で描くという話法を黒澤明の『羅生門』よりも前に導入したものだった[9]。これは残念ながら映画化には至っていない。
もう一つ実現しなかった計画として主観的カメラの映画がある。
映画ではカメラという「非人称の」媒介が常に介在しているわけだが、このカメラアイが1人称化されることがある。例えば、アップで映されたヒロインの顔に驚きの表情が浮かび、次にその原因となったオブジェが映されるとしよう。このときオブジェはヒロインの目を通して見られたオブジェだからカメラは彼女の目になったことになる。こうした切り返しによるカメラの人称化はグリフィスの『散りゆく花』(Broken Blossoms, 1919)に始まるとされるが、サルトルは無声映画における主観的映像に若い頃から関心があり、先にもあげた19歳のときの映画論でもジャック・フェデーの『クランクビーユ』(Crainquebille, 1922)やアベル・ガンスの『鉄路の白薔薇』(La roue, 1922)などに見られる主観的映像に言及している。
サルトルと監督のHenri-Georges Clouzotはこの1人称化を極限に推し進めようとした。つまり、主人公をカメラアイに完全に同一化させ、出来事はすべて主人公がみる限りでスクリーンに映し出されようにしたわけだ。当然、本人はスクリーン上には現れない。この技法(今日言うところの主観的カメラ)の先駆例としてよく出されるのがロバート・モンゴメリーの『湖上の女』(Lady in the Lake, 1947)だが、サルトルとクルーゾが構想を練っていたのはその3年前のことである[10]。
この計画についてはHenri-Georges Clouzot監督の証言が残されている。それによると、カメラアイを主人公の目だけではなく意識そのものに同一化しようとしたようで、知覚のみならず、無意識を含め意識のいろいろな有り様を描くという極めて野心的な試みだったようだ。Clouzotは「複数の声による内的独白」(monologue intérieur à plusieurs voix)という表現を使っている[11]。この表現自体、リセの教師時代に内的独白について講演した経験をもつサルトルの表現だった可能性がある。
映画レビュー、我々はマーシャルです。無意識の映像化については、先にあげた19歳のときの映画論でもドイツ表現主義映画の『道』(Die Straße, Karl Grune監督, 1923)という作品をとりあげて、「映画だけが精神分析を正確に表現できる」と熱っぽく語っていた。この思いが奇しくもクルーゾとの共同作業で実現しそうになり、結局このときは頓挫するが、さらに15年後に今度はハリウッドのジョン・ヒューストン監督から声がかかり、フロイトの自伝映画(Freud, The Secret passion, 1962)のシナリオを書くことになる。サルトルと精神分析とをめぐる奇妙な関係についてはしばしば言及されるが、それは精神分析映画との関係にもそのまま再現されていると言えよう。
さてこれまではサルトルと映画の不幸な関係にばかり触れてきたが、今振り返るとそう不幸とばかりも言えないのではないか。
まず、周知のように戦後、サルトルは知識人のスーパースターになり、いろいろな分野で多大な影響を与えるわけだが、影響を受けた者の中には映画青年たちも含まれる。アレクサンドル・アストリュック、アンドレ・バザンなどは占領時代からサルトルの哲学的著作(『想像力の諸問題』『存在と無』)や文学理論に親しんでおり、戦後はサルトルの雑誌『レタンモデルヌ』にも寄稿している。サルトル的なものが彼らを媒介に、nouvelle vagueの映画作りにも受け継がれたと考えることができる。日本でも大島渚はサルトルの影響を否定しない。だから、サルトルと映画の関係は彼の思惑を超えて幸運な広がりをみせた可能性は大いにあるのだ。サルトルの映画制作への直接的関わりとは別に、これからはサルトルの哲学、文学、文芸批評が戦後映画に及ぼした影響を問う必要があるように思われる。
さらに、(一部、他の脚本家の手が入ったとはいえ)彼のオリジナル・シナリオによる映画が4本残されているという事実は我々にとっては幸運なことである。しかも、出演俳優の顔ぶれはといえば、ジェラール・フィリップ、ミッシェル・モルガン、イヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレ、ミレーヌ・ドモンジョ、ミシュリーヌ・プレール、モンゴメリ・クリフト、スザンナ・ヨークと錚々たる俳優たちだ。サルトルと映画の関係が不幸だったとばかりはとても言えない所以である。
3)映画とアンガージュマン
サルトルといえばアンガージュマン、つまり芸術形式による社会的参加をとなえた哲学者、文学者として知られている。それではサルトルがどのような芸術形式にその可能性をみていたかと言うと、まず最初に来るのは演劇だろう。彼がはじめて戯曲を書いたのは捕虜収容所の中だが、このときに書いた『バリオナ』という戯曲により、まさに捕虜による捕虜のための演劇公演が実現することになる。サルトルにとってはエコル・ノルマル以来はじめて集団(マス)を具体的・身体的に体験するうえで決定的だった。マスはアンガージュマンを考える上でのキーコンセプトである。
次にくるのは小説である。小説『嘔吐』では孤独な個人の偶発的存在性contingenceを描いたわけだが、戦争・占領を契機にサルトルは小説に歴史性historicitéを取り込むべく『自由への道』を書く。戦争のような大時代状況では、個々人は自由でありながらすでに賭はなされている、つまり一見自由な個々人の意識が状況が張り巡らす蜘蛛の糸によって絡め取られているということがある。これをどのように表現したらよいかという舞台裏の苦労を『文学とは何か』で書いているが、見つけ出した方法は、戦争を生きる多様な個々人の意識流を短いカットの積み重ねで「意識のオーケストレーション」として描くというものであった。アメリカ小説の影響もさることながら、明らかにサルトルは映画のモンタージュ技法を意識していたと思われる。
それでは映画によるアンガージュマンはどうだろうか。
ドイツ占領末期にサルトルは映画論を二本書いている。ともにEcran Françaisという当時の非合法出版物に、もちろん匿名で書かれたものだ。1944年7月発行の「映画の力」("Puissance du cinéma")という論考(ジャンル的にはpamphletに近い)では解放間近のせいであろう、映画のゲルマン化に抗せよ、ドイツ映画など見るな、去勢されたシナリオで映画など撮るな、といったきわめてストレートな主張が並んでいる。
一方、これに先だって同年4月に書かれたものには「戦後のための映画」("Un film pour l'après-guerre")というタイトルが付けられている。パリ解放は8月だが、すでにこの時点でサルトルは戦後映画のあるべき姿について考えていた。この論文では映画を小説や演劇と比較して、スクリーン上にのみマス(原文はfoule)の場所があると書いている。
演劇でマスを描くにはギリシャ劇のコロス(合唱隊)のように象徴的に描かざるを得ないが、映画はマスをそのまま見せることができるというサルトルは、恐らくアメリカ映画のグリフィスの大作やフランスならばアベル・ガンスの『ナポレオン』あたりを考えていたのであろう。
何ミミについてとはいえ、サルトルもマスを映せばそれでよしとするわけでは勿論ない。戦後映画に対して「社会状況を全体的に描く」こと、「社会的フレスコ画」を描くことを求めているから、これは『自由への道』(特に第二部「猶予」)の目論見にむしろ近いものだ。時代状況全体を描くための技法として言及しているのもモンタージュで、これも『自由への道』の技法に近い。一言で言えば、小説、映画を問わずマスをモンタージュ技法で描くというのがこの時代のサルトルの創作の中心理念だったことになる。ただし、こと映画に関しては、個人的なテーマを扱ってもよしとする。恋愛でも、個人対個人の対立でも描いていっこうに構わないのだが、それを社会状況にきちんと置き直さなければならないと付け加えている。『� ��はなされた』はまさに個対個の対立がからんだ恋愛ドラマだが、それがブルジョワ対プロレタリアの対立、圧政に対する民衆の反乱という社会的状況をバックグラウンドに描かれている点で、まさにサルトルが提唱する「戦後映画」の基準に合致している。パテ時代に書かれた他のシナリオ(「チフス」「レジスタンス」「大恐怖」)の粗筋をみても、メロドラマと社会状況の融合がシナリオ・ライターとしてのサルトルの信条(credo)であったことがわかる。
映画のアンガージュマンをサルトルが唱えたのは、ドイツ占領下という特殊状況のなかでマスの効果的な教化手段として持ち出したという面は否めないが、それだけではないように思う。サルトルと映画の関係は実に深いものがあり、ボーヴォワールの自伝にはサルトルが映画と文学を同等のものとみなしていたということが書かれている。これを裏付ける文章が残っている。一つはサルトルが19歳の時に書いた「映画擁護論:国際的芸術の擁護と顕揚」(Apologie pour le cinema : defense et illustration d'un art international)という大げさなタイトルの映画論である[12]。
すでにこの映画論のなかで若きサルトルは映画を民衆芸術としてとらえ、道徳的な教化力について論じている。さすがに哲学学徒らしく、映画をソクラテスにたとえたうえで青少年を堕落させるなんてとんでもない、それどころか映画は今日唯一教化的な芸術(art moralisateur)であると断じている。映画が教化的な第一の理由は物語そのものの魅力である[13]。
もう一つの理由は、映画はハラハラドキドキさせながら、最後に勧善懲悪で終わるからだ。これについては哲学者フィヒテを持ち出して、ヒーローは自己の否定として悪漢を定立するが、それは悪漢をうち破るためであると、哲学的な意匠を凝らしながらも単刀直入に述べている。サルトルの映画趣味はある意味では保守的だが、それは恐らくこの頃にできあがっていて、その後もあまり変わらなかったのだと考えられる。この映画論でもチャップリンなどのアメリカ映画を礼賛する一方で、当時のドイツ表現主義には深い分析をほどこしながらも「芸術至上主義」として積極的には評価していない。
若い頃の映画論がもう一つ残っている。こちらの方は、ルアーヴルのリセで哲学教師をしていた時代のものである。フランスには学期始めに「賞状授与式」distribution des prixというセレモニーが以前はあり、そのときに父兄や教員を前にして優秀な生徒に賞状が授与されるだけでなく、教員が講演(あるいは講話)する習慣があった。このいかにも儀式張った機会に講演を頼まれた新任のサルトルが選んだテーマが、その頃は芸術の名には値しない二流の娯楽、しかも青少年に悪影響を与えるとされていた映画だった。このあたりがいかにもサルトルらしいのだが、この講演のなかでも、演劇と比較して、いかに映画が儀式性からほど遠く、日常性に根ざした民衆芸術であるかを説いている。このあたりのトーンはそのまま後に自伝『言葉』で展開される映画と演劇の比較にそのまま通ずるものだ。
以上の二本の映画論により映画の社会的位置づけ、あるいは映画の効用について若きサルトルがどのように考えていたのかがわかる。
結局のところ、サルトルが映画に対して抱くイメージとは、映画は民衆芸術であり、娯楽と教化の機能をもっている。したがって、映画はわかりやすいものでなければならない、ということになる。あっけないほどシンプルな民衆芸術論だが、先ほど紹介した占領中に書かれた映画論にそのまま生き残ることになるだろう。
サルトルのアンガージュマン理論はもちろんそれほど単純なものではなく、戦後次第に深められるのだが、その情緒的原点にあったのが小説でもなければ、演劇でもなく、映画だったというのが興味深い。サルトルにおいては、映画は地下水脈のように脈打ち、地表面に露出する度合いは確かに少なくなるが、情緒的な濃度は維持され続けたのである。
書誌&フィルモグラフィー
1) パテ時代(1943-46年)のシナリオ
・ 「賭けはなされた」Les Jeux sont faits[1943-44年冬執筆](出版:Les Jeux sont faits, Nagel, 1947 ; réédition, Gallimard/Folio, 1996[邦訳『賭けはなされた』人文書院]):Nino Frankの助けを借りて執筆。
・ 「チフス」Typhus[1943-44年執筆](自筆原稿、フランス国立図書館アルスナル分館)
・ 「レジスタンス」"Résistance"[1943-44年冬執筆](タイプ原稿28枚の出版:"Résistance", Les Temps modernes, nº 609, juin-juillet-août 2000, p.3-40):戦後はタイトルも「悪路」Les Mauvais Cheminsに変わり、レジスタンスではなく対独協力がテーマになるはずであった。監督も当初のLouis Daquinから、Marcel Paglieroに代わることになっていた。Nino Frankは次のように証言している。
「シナリオは対独協力とレジスタンスについてのメロドラマ風のスケッチで、舞台はルーアンだが、撮影は英国か、連合軍上陸後はフランス北部の港町で行う予定であった。」(Nino Frank, Petit cinéma sentimental, La Nouvelle Edition, 1950, pp.170-171)
・ 「魔法使いの弟子」L'Apprenti sorcier[1943-44年冬執筆](タイプ原稿50枚、1967年以後紛失)
「冷徹なリアリズムを背景とした幻想物語。悪と善二つの魔力を備えた魔法の指輪が物語の中心。願いをすべて叶えるが、叶うためには誰かに害が及ぼされなければならない。悪夢を思わせる舞台装置、巧みに構成されたストーリー、しばしば残酷な台詞。」(Alain Virmaux, l'article "L'Apprenti sorcier" in Dictionnaire Sartre, Honoré Champion, 2004)
・ 「大恐怖/世界の終末」La Grande Peur / La Fin du monde[1943-44年冬執筆、1944年1月17日付](タイプ原稿52枚、1967年以後紛失)
「社会的対立、階級対立をベースにしたメロドラマ風のフィクションに、世界の終末という現代の強迫観念が挿入されている(土星の断片が地球に衝突するかもしれないという設定)。」(Alain Virmaux, l'article "La Grande Peur / La Fin du monde", Ibid.)
・ 「ニグロの話」Histoire de Nègre [1943-44年冬執筆](原稿、1967年の時点ですでに紛失): 「恭しき娼婦」の元になった可能性のあるシノプシス。
・ 「偽の鼻」Les Faux Nez [1944年末執筆](出版、La Revue du cinéma, nº6, 1947)
「1944年12月1日にサルトルはコメディ映画のテーマを見つけたと語った。」(Alain Virmaux, l'article "L'Apprenti sorcier" in Dictionnaire Sartre, Honoré Champion, 2004)
・ 「暗い道を通って」(「極秘文書」)Par les chemins obscurs (ou "Strictement confidentiel") [1944年末企画](原稿、破棄):「出口なし」にヒントを得た1人称(主観カメラ)の精神分析映画。共同企画者:H.G.クルーゾ。
・ 「歯車」L'Engrenage [1946年冬執筆:パテ時代最後のシナリオ]: 原題は「汚れた手」"Les Mains sales"だったが、同名の戯曲とは内容は異なる (出版:L'Engrenage, Nagel, 1948)
2) 戦後のシナリオ
・ 「ジョゼフ・ルボン」Joseph Lebon [1956年頃執筆]: フランス革命についてのシナリオ用のノートとシノプシス。主人公ジョゼフ・ルボン(1765-1795)は人民救済委員会から北方軍に派遣された警察署長で、テルミドール反動の後、過度の暴力行使を理由に処刑された。(出版:«Fragments de Joseph Le Bon», Les Temps modernes, nº 632-634, juillet-octobre 2005, p. 675-694[University of Texas(Austin)のサルトル・コレクション蔵])
「映画の冒頭は国民公会におけるルボン裁判だが、すぐに2年前にフラッシュバックしてメイン・ストーリーが始まる。ルボンはある既婚婦人に狂おしい恋をしている。ただ、複雑な状況下で正常に愛をはぐくむには二人の愛は強すぎる。」(G.Philippe, l'article "Joseph Lebon " in Dictionnaire Sartre)
・ 「サレムの魔女」Les Sorcières de Salem [1955年11月〜56年4月にシナリオ、台詞執筆]: アーサーミラーの戯曲, The Crucible の脚色(抜粋出版、Les Lettres françaises, 2-8 août 1956)
「ミラーは主人公が偏執狂的な圧政の<るつぼ>のなかで生き延びる姿を示すことで、観客に積極的行動を訴えようとした。一方、ミラーは今日の啓蒙された社会が原則的に受け入れない悪への嗜好や死の本能をもつ者たちの姿を古文書に読み取った。サルトルの場合、これとは逆に悪の形象は政治的暴力の形で生き延びる。」(Annette M. Lavers, l'article "Les Sorcières de Salem " in Dictionnaire Sartre)
・ 「フロイト」Freud [1958年シノプシス(タイプ原稿95枚)執筆、1959年シナリオ(タイプ原稿800枚)執筆](出版:Le scénario Freud, Gallimard, 1984[邦訳『フロイト<シナリオ>』人文書院])
・ 『賭けはなされた』Les Jeux sont faits (1947)、監督Jean Delannoy、出演: Micheline Presle (Ève Charlier)、Marcel Pagliero (Pierre Dumaine). 1 h 29 mn
・ 『狂熱の孤独』Les Orgueilleurs (1953)、監督Yves Allégret, 脚本 J.Aurenche、Y.Allégret(サルトルのシナリオTyphusによる)、出演:Gérard Philipe、Michèle Morgan、Michèle Cordoue、Carlos Lopez Moctezuma, 1 h 43 mn
・ 『サレムの魔女』Les Sorcières de Salem (1957)、監督Raymond Rouleau、出演: Simone Signoret (Elisabeth Proctor), Yves Montant (John Proctor)、Mylène Demongeot (Abigail Williams).
・ 『フロイト』Freud, The Secret passion (1962)、監督J. Houston、脚本Charles Kaufman、Wolfgang Reinhardt、出演: Montgomery Clift (Freud)、Susannah York (Mme Freud).
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